日本のインテリア 歴史から学ぶ文化の流れと多彩な建築様式

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日本建築は古来から西洋の文化を取り入れながらも、それらを巧みに吸収して独自の文化を手に入れてきました。

組積造の多い西洋と、日本の建築様式の大きな違いとしては「内側」と「外側」の一体感を重視したことでしょう。

今回は日本特有のインテリア歴史を通じて、基本的な日本建築の特性と室内空間のあり方を紹介しましょう。

 

先史時代から飛鳥・奈良時代の建物

金堂と五重塔

日本の歴史で先史時代は、縄文時代と弥生時代、古墳時代を指します。

縄文時代の住居として、主なものは竪穴式住居です。木材を骨組みとし、草を葺いた屋根のシンプルな構造。開口部は小さく内部の中央、または脇の部分に炉が設置されています。

弥生時代の一般的な住宅は竪穴式でしたが、中には平地住居もありました。竪穴式住居と平地住居の違いは、屋根と一体であった壁が分離し開口部も多くなり居住性が向上したこと。

古墳時代になると、住居に床が設けられ高床住居が現れました。この時代で、屋根と壁、床という建物の基礎要素が確立。高床住居は、高温多湿な大陸南部や東南アジアからの影響を受けていると言われています。

さらに時代が進むと、聖徳太子が中央集権国家の建設を目指した飛鳥・奈良時代に移り変わります。

6世紀末に、まず飛鳥寺が建てられて四天王寺及び法隆寺が建立。これらの寺院には、大陸の影響を強く受けています。

なお寺院の配置は中国系の方法が踏襲されましたが、法隆寺については日本独自の発想がプラスされて非対称の配置を採用しました。

貴族の住宅「寝殿造」の平安時代

青空と京都御所

平安時代で重視されるものとして「寝殿造」があります。寝殿造は、平安後期に貴族の住宅として誕生しました。

寝殿造は歴史上、優雅で華やかな日本独自の建築様式として完成。南に面する寝殿を中心に、北や東、西、東北及び西北に対(タイ)と呼ばれる建物を配置しました。

寝殿は主人の部屋として、北の対屋には妻の居室として使用。

代表的な寝殿造は、藤原氏の邸宅「東三条殿」でしょう。なお、京都御所も寝殿造をモデルにして建てられています。

寝殿造の大きな特徴としては納戸や寝所に使う部屋以外、広々とした1室となっているところでしょう。そのため、使用目的によってフレキシブルに室内を設営する必要があり、一定の決まりに基づいて様々な調度品を配置します。

置き畳や円座など座るための「座臥具」、屏風や几帳などで空間を仕切った「障

屏具」、質や箱といった道具を納めた「収納具」の3つに大別。

開放的な空間に必要なときだけ家具や調度を配置するといった、日本家屋のインテリア原点が垣間見られます。

貴族から武家の時代へ鎌倉・室町時代

壺と違棚

歴史上、平安時代末期になると武家が台頭。この頃の日本では、貴族中心の文化から武家文化へと移り変わっていきます。

鎌倉時代では、武士の間で始まった住宅形式を武家造と呼ぶことも。しかし、門や馬小屋に特徴があるものの、ベースは寝殿造となっており独自の様式は見当たりませんでした。

室町時代になると、「書院造」が出現。寝殿造から次第に変化したもので、接客を中心にしたスタイルです。後の和風住宅に見られる床の間も、この形式で出来上がりました。

書院造では、寝殿造とは異なり細かく部屋が仕切られています。まず小さな部屋から畳が敷かれ、広い部屋も徐々に前面に敷き詰められるようになりました。

建具は障子や襖といった、引き戸タイプが誕生。ちなみに、薄い紙を貼った明かり障子は鎌倉時代から使用されたと言われています。

天井も現代の和室のようにデザイン性を意識。床(床の間)や棚、書院といったものが調度から建築化へとシフトしていきました。

城郭建築と茶室の安土桃山時代

白の姫路城

信長が活躍した安土桃山時代では、数々の遊郭建築が盛んになります。信長が築いた安土城は、本格的な天守閣を持つ壮大なものでした。

さらに、桃山時代の後半になると日本各地に天守閣を持つ遊郭建築が建立。代表的なものとして、大阪城や姫路城、伏見城などがあります。

城内では城主の住まいとして書院造のものが多く、室内は狩野派の障壁画など華麗な装飾が施されていました。

さらに、この時代では「茶の湯」の文化も進展。桃山時代では、草庵風の茶が広がりました。

創始は村田珠光とされていますが、完成させたのは千利休です。

「茶の湯」は簡素かつ静寂を重んじており、建築だけではなく庭、道具や立ちふるまいに至るまで重視。著名なものとしては、千利休の「待庵」や織田有楽の「如庵」が有名です。

さらに茶の湯は、茶道具への関心も高まり、茶碗では楽焼が京都で始まりました。

江戸時代は鎖国で独自のデザインを樹立

日本の歴史上で鎖国が行われていた江戸時代は、独自の文化が成長したと言えるでしょう。

そんな江戸時代で、建築とインテリアの中心になっているものは「数寄屋造」と「権現造」です。

数寄屋造の数寄は「好き」の当て字で、茶の湯を好む事を指します。つまり数寄屋造は、茶室建築の手法を採用した住宅と言えるでしょう。

代表的な建築物として、桂離宮が有名。親王の山荘として17世紀前期から建設が開始して、半世紀近く掛かって今の姿になったと言われています。

この数寄屋造は、主にデザイン面で特色が発揮しました。

数寄屋造は書院造の形式に縛られずに、様々な面で多彩に展開。たとえば、床や床脇の棚などは自由な発想をいかした軽妙なスタイルが増えました。

建具では、襖の中央に障子をはめ込んだものや障子の組子の組み方に工夫をしたものが見られます。

なお、欄間の部分はシンプルながらもおしゃれなデザインのものが好まれました。

さらに、絢爛豪華な装飾が施された建築様式を権現造と呼びます。有名な建築物は、日光の東照宮。権現造の形式自体は、平安時代からの神社形式を倣っています。

権現造は豪華な儀式が行われたことから、装飾が華美になり一般的にそれが特色となりました。

なお東照宮のゴージャスな装飾は、桃山時代から受け継がれてきたものです。

近代建築の第一歩を踏み出した昭和初期

近代建築

当時、明治政府が目指したものは西洋のような近代国家にすること。そこで、技術水準を高めるため多数の外国人を日本国内に招き入れました。

建築やインテリアにおいては、ジョサイア・コンドルが迎え入れられ工部大学校で造形教育に携わると共に、鹿鳴館やニコライ堂など多くの建築設計にあたることになります。

明治中期になると、コンドルの教えを受けた建築家たちの活躍が始まりました。その中心的な人物が、日本銀行や東京駅などの設計で知られる辰野金吾です。

官庁や学校といった公共物の建築に西洋式が取り入れられると、各地で洋館と呼ばれる洋風の住宅が建てられました。

家具類では、官庁や学校、軍隊などで椅子式が採用されたことで洋風家具が生産されます。この頃の家具は、実用的なものとデザインを重視した工芸的なものに区別されました。

一方、一般家庭ではすぐに洋風化が進んだわけではなく、和家具の系統に入る床座用の「ちゃぶ台」が見られるように。

第1次世界大戦後の大正時代では、インフラ整備が進み家事労働の合理化が進みました。

なお大正の初めには「中廊下式住宅」が普及しています。

南側に主な居室、北側に台所や浴室などの水周りを配置。さらに、玄関脇に応接間を設けることが流行しました。

加えてこの頃は、フランク・ロイド・ライトが帝国ホテルを設計しており、内部空間や家具デザインにも注目されています。

近代建築の第一歩を踏み出した昭和初期

歴史上、昭和初期は金融恐慌や戦争などがあり激動の時代でした。

そんな中でも、建築やインテリアは近代建築の意向に沿った建築物が建てられています。

1930年代には、ル・コルビュジエに師事した前川國男や板倉準三らといった建築家が台頭。

さらに有名な住宅として、1935年に建てられた土浦亀城の自邸は木造の乾式構造を採用しました。直線と白塗りの外観は、今見ても「モダン」を感じさせるでしょう。

モダン以外にも和風住宅では、数寄屋の手法を生かした吉田五十八がいます。

家具や工芸品では、1928年に新しい生活工芸を目的として蔵田周忠を中心に豊口克平らが活躍。

この時代は、産業工芸と美術工芸との違いを明確にしていました。

また日常生活で使用される民衆工芸にも目が向けられており、民芸家具と呼ばれるジャンルが広がることになります。

 

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